すごい人

次上司になるかもしれない人のブログを発見したので、読んでいたら、とてもすごい人であったのでびっくりした。

と同時に、これは一緒に働いたとしたら卑屈になってしまいそうな気がした。

 

相手がすごい人だと理解していると、会話するにしても相手の意見を絶対的なものとしてとらえてしまいそうだ。

どう対処すべきなのか。。。

数か月に一度くらい

2か月に1度くらいの頻度で、「自分は何がやりたいんだろう?」と思ってしまう。

 

ここ2か月くらいは競技プログラミング機械学習の勉強を割と頑張ってやっていたので、あまりそのような自問自答はしなかったのだが急に波がやってきた。

 

こういう時にやるせなくなって自分の感情を日記におこすのだ。

雑感

仕事がなさ過ぎて辛い。

特に必要もないのに会社に行く理由が見当たらない。

このままでは腐ってしまう。

 

部門情報共有では他のチームの充実ぶり(忙しいは忙しいのだろうけど)をみると、自分は何をしてるのかと不安になってくる。

忙しい時に感じる焦燥感のほうがまだましである。

 

転職活動を開始する。

 

 

「35歳までに読むキャリアの教科書」

「35歳までに読むキャリアの教科書」という本を読んだ。

35までに、才能と努力によって培ってきた「能力」と、仕事においてなしとげたいことである「動機」をマッチさせた職につくべきであるという主旨で、「能力」の開発方法と「動機」の顕在化方法の具体策について書かれている。

 

「動機」の顕在化について、孫正義の「のぼる山」の話があった。

www.goodfind.jp

 

 

志高く。坂本竜馬いわく、「世に生を得るは事を成すにあり。」人生一回きりしかないのだから、この時期に自分が登りたい山を決めてほしい。自分の人生を何に懸けたいのか自問してほしい。「登りたい山を決める。これで人生の半分が決まる」目指すべき山を決めずに歩くのは、さまように等しい。自分は何をもって事を成したいのか?その1 点だけは決めてほしい。

 

孫正義の「のぼる山」は「デジタル情報革命で、知恵と知識の共有を推進し、人類に貢献する」であるが、私にはこのような高邁な理想は掲げられない。

 

孫正義は人類というマスを相手にしているが、正直人類に貢献するという実感が1ミリも湧かない。

それよりも、実際に一緒に働く周囲の人に、「あいつがいてよかった。」と思ってもらえるような人でありたい。

「あいつがいてよかった。」にもレベルがあるだろう。「まぁ助かった。」から「いなかったらPJ頓挫してた。」まで。

そのレベルを上げていくことを私ののぼる山にしてみようか。

焦燥感を言語化

なんとなく日々不安を感じている。

 

のんびり働いていていいのか。

一人では何もできないのではないのか。

この体質で高齢になってからもやっていけるのか。

 

根本にあるのは、自立できていないことへの不安である。

 

よくあるたとえ話だが、会社が今倒産したらどうなるか?

私は一人で生きていける自信はないし、次の働き先を見つけられる自信すらない。

 

自立できる条件とはなにか?

①社会に貢献できる能力を自分の中に持つこと

②①で身につけた能力で他者に貢献できること

 

自立能力を定義するのであれば、

①×②であって、①+②ではない。

片方が0であればイコール0となる。

 

①に関しては、それなりに自信がある。自分の中だけで完結することをコツコツやり続けるのは得意だ。

問題は②が限りなく0に近いことにある。

これが不安の原因である。

 

 

生き苦しくなってきたので就活時代を振り返る

なんとなく資格を取ろうとしてしまうのが嫌いだ。

結局矮小な自分に無理やり意味づけすることが目的なんだろう。

そうでもしないと私は生きていけないのだろうか?

 

どうやったら情熱をもって生きられるだろうか。

漫然と日々を塗りつぶしていくのは虚しい。

 

こんな感じで苦しくなってきたのはいつからだろう。

大学四年時に就職活動をし始めたときあたりからに感じる。

したいこと、やりたいこと、全然はっきりとしていなかった。

これまでと同じように大企業に入れれば勝ちなゲームだと思っていたけど、

もともとコミュニケーションもうまくない、人の顔色を窺うのが癖になっている

私には就職活動は向いていなかった。

 

テストならコツコツと一人で勉強すればなんとかなる。

就職における面接は一人ではなんともならない。

他人に助けを求めるのが下手、というのもあったが、

何もビジョンの見えていない自分を人にさらしたくなかった、

まともに対話のできない自分を笑われたくなかった。

 

同期が次々と優良企業に内定していく中で、企業から足蹴にされる自分が情けなかった。

受験で落ちたときは、悔しい気持ちはあったものの、もう一段努力を重ねれば何とかなる希望があった。

就職活動では、その人のこれまでの歩み、これからの意志を見る。

対策、努力の仕方が分からなかった。

 

うその理論武装をして闘う気は起きなかった。

自分にうそをつきながら生きていける気はしなかったのと、

「何者」の主人公みたいに、うそをつきながら奮闘している就活生を見下し、自分は違うと高いところに立っていたい気持ちが混ざっていた気がする。

 

結局うまくいかず、逃げの院へ。

最初は院で頑張って学会発表をいっぱいしようとしていた。

しかし、もとからなんとなく決めてしまった学部であったので、熱意もさらさらなく、

なんとなく公務員の勉強を始めてしまう。

ここでも目に見える効果がでるものに逃げている感がある。

 

そのうち国家公務員も面白味が感じられなくなり、IT系企業を目指すことに。

学科は情報系でもなんでもなかったが、それまでに勉強してきた中で

最も面白く感じられたのがプログラミングであったためだ。

この決断に関しては、現在社会人2年目の終わりであるが、良かったと思っている。

「悩んだ末に出た答えなら15点だとしても正しい」は事実である。

 

基本IT系企業に絞って就職活動をすすめていたが、ここでも順風満帆にはいかず、次々と落ちる。

どうにかこうにか引っかかったIT系企業に今所属している。拾ってもらったのには感謝しかない。

 

現在の仕事内容は好きである。

プログラミングで何かを作成すること、プログラムを読み解くこと、

複雑な事象を分かりやすい資料でもって説明することは自分の性に合っている。

IT系は常に勉強といわれるが、コツコツやることだけが取り柄であるので、

勉強することは苦にならない。

 

かといって私は仕事ができるリーマンでは全くない。

仕事においては報連相が大事になってくるらしい。

私は怒られることが極度に苦手であるので、報告をする際には過剰に成果物チェックをするし、顔色を窺って連絡をすっぽかしてしまうこともあるし、くだらないことなのではないかと思って相談できないこともある。

 

ここまで書いてきて気づく。私は自分の勇気が足りずに現状うまくいかないことを、

情熱がないことにすり替えようとしている。

今ベストを尽くせているのか。否である。

 

情熱をもって生きるはじめの一歩は、今の環境で勇気を出して、自分の頭で考えたことを必死で相手に伝えることではないか?

情熱をもって何か信念を貫こうと思ったら必ず障害はあるだろう。

勘違いしていたが、情熱とは覚醒を与えてくれる麻薬ではなく、小さくくすぶっている炎のようなものではないだろうか。

大事に育てていけば燃え上がる。